その芸術性の裏に隠された愛の物語・タージマハル

インドの首都デリーから鉄道で約2時間、インドの北部のアーグラにその白亜の霊廟はあります。そう、まるでアラビアンナイトの宮殿のようですが、霊廟なのです。その建造物には信じられないような純愛物語と、愛ゆえに建立にかける情熱が作り出した最高峰の芸術が秘められています。その秘話から、この魅力的な世界遺産を紐解いてみましょう。

建設までの物語

ヒンドゥー教で知られるインドですが、イスラム勢力が支配、安定していた時代がありました。その16世紀初頭から300年続いたムガル帝国で、この建造物と物語は生まれます。タージマハルがイスラム様式の建築であるのはそのためです。時の五代皇帝シャー・ジャハーンは本当に妃ムムターズ・マハルを大切にしていました。

その愛妃が1631年に逝去してしまったことから、この霊廟の建設が始まります。ムムターズの遺言のひとつであった霊廟の建立、その約束を果たすためにシャー・ジャハーンはその時の持てる財力、時間を全て投じてしまいます。その結果、国が立ち行かなくなり、息子に幽閉されてしまうのですが、それでもこの美しい霊廟が芸術的な世界遺産として、いまでは世界中の観光客に愛されるようになったのですから、物語は悲しいだけには留まらず、愛は愛を呼ぶと言えるでしょう。

愛ゆえの莫大な投資が産んだ芸術性

タージマハルの芸術性をつぶさに感じられるのは、まずは徹底的なまでに世界各地から選りすぐりの宝石宝玉を取り寄せていること。それらで描かれる精緻な幾何学模様、象嵌細工を、あの遠くからは白亜に見える霊廟が内包していることでしょう。中国からの翡翠、水晶。スリランカからのアメジスト。アフガニスタンからはラピスラズリ。ブンデルカンドから、ダイヤモンド。ざっと見るだけでも驚きの高価さとこだわりですが、なんと計28種類にもおよぶ、宝石、宝玉が使われたのです。

また、それを加工する熟練した技術者も必要でした。そして中央ドームが高さ約70m、4本のミナレット(塔)は40m以上という巨大な建造物を造る建材はインド中から1000頭以上もの象を使って運ばれたのです。なにより、白亜であるのは、総大理石であるから。愛妃ムムターズへの果てなき想いは、無謀ともいえる行動力で、この地上天国を捧げることに全てを投じたとも言えます。

ふたりの愛の物語

そんなふたりの愛の物語は、当時の皇帝と愛妃には珍しいような純愛ドラマでした。シャー・ジャハーンは他の王のようにハーレムをつくることも、複数の妻をめとることもなかったのです。そして外征にさえムムターズを伴い、文字通りいつも一緒の夫婦でした。結婚生活18年の間に14人のこどもをもうけ、ムムターズは亡くなる前には「新しい妃をめとらないで」とお願いしたそうです。

しかしそれどころかシャー・ジャハーンはふさぎこんでしまい、一週間は公の場に姿を現さず、2年に渡って宴を催すことをしなかったそうです。喪が明けてすぐにタージマハルの建造にとりかかり、全てを捧げ尽くして息子に幽閉されてしまったため、本当なら、対になる黒大理石の自分の霊廟を建立することはかなわなくなってしまいました。

それゆえ、ムムターズの横に埋葬され、完璧な左右対象建築として建てられたタージマハルのその部分だけ非対称なのだそうです。幽閉されたアグラ城から白亜に輝くタージマハルを眺め愛妃に想いを馳せる晩年のシャー・ジャハーン。タージマハルと共に、語り継がれる永遠の愛の物語です。

その輝く白さの魅力の味わい方と、その白さを守るために

タージマハルの写真の代表的なものは白亜のドームが青空に映えているものですが、その白さと造形美を味わうために、早朝に訪れて朝陽に輝くタージマハルを味わったり、また満月の夜に限定で公開されているそうなので予約を入れてロマンチックな満月のタージマハルを味わうのもすてきです。

タージマハルのその白さを守るために、排気ガスの出ない電気自動車をその周囲の郊外で専用として観光客用に採用し、また霊廟では靴カバーをつけるか、靴をぬぐことが義務になっています。美しい空に映えるその白さはこうして守り続けられているのですね。いかがでしょうか。

紐解いて行くと素晴らしい芸術性がどう築かれたか、そこに隠された愛とロマンがみえてきます。ぜひ現地で雄大な白亜のドームを眺め、微細な細工に感嘆し、ふたりの物語を感じてみてはいかがでしょう。

ヴェ ネツィア随一の聖堂・サン・マルコ寺院

ヴェネツィアを訪れたなら、必ずと言ってその前に立つ、と言っても大袈裟ではないのがサン・マルコ寺院でしょう。ファサードには色大理石と彫刻、半円蓋の中のモザイク画。建築物と芸術が寄り添う大聖堂は、いったいどういう由来があって建てられたのでしょう。そのモザイク画に描かれているとおり聖マルコにまつわる史実がそこにはありました。

サン・マルコ寺院はどういう経緯で建てられたのか

東ローマ帝国の管轄下にあった時代、ヴェネツィアはもともと東方由来のテオドーロを守護聖人として崇めていましたが、9世紀に入り独立国家となってもっとランクアップできるような守護聖人を必要としたのでした。そうして浮上したのが聖マルコだったのです。聖人の中では、イエスの弟子たちのリーダーとして説教していたピエトロは別格でしたが、イエスの言葉をまとめた福音書家であるマルコ、ルカ、ヨハネ、マタイは次に着目に値する立場。ヴェネツィアはその中の1人、聖マルコの遺体を所有して守護聖人とすることで力を示せるように仕立てる企てを仕掛けます。

海の上に人工的につくられた小さな国ヴェネツィア共和国は、当時から東方貿易が盛んでしたが西暦828年、エジプトに出向いていたヴェネツィア商人2人がアレキサンドリアから聖マルコの遺体を運んできたのです。聖マルコが生前布教につとめていたアレキサンドリアはローマやコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)と並ぶキリスト教の中心地でしたが、616年にはペルシアに、640年にアラブ人に制覇され、聖マルコの墓地自体荒らされていたと伝えられており、こうした企ても通りやすかったのでしょう。運ぶ際はアラブ人が不浄として嫌う豚肉と、キャベツをかぶせて聖遺骸を隠すことで、中身をよく確認せずに通関させることを可能にしました。

実行した商人の裏にはヴェネツィア政府の指示があったとされています。国をあげて聖マルコの遺骸を迎え入れる必要があったのです。こうして聖マルコの遺体を安置するための聖堂として、サン・マルコ寺院が建造されたのでした。

聖マルコにまつわるモザイク画

豪華なファサードの正面向かって一番左には、カーブのついた半円蓋に「行列で大聖堂内に運ばれる聖マルコの棺」があります。このモザイク画の中で、着飾った人々が集まっているのはまさにこの聖堂の前。そして掲げられているのが聖マルコの棺。この建造物、サン・マルコ大聖堂のテーマとも言えるモザイク画でしょう。このモザイク画は13世紀に作られたオリジナルのものです。

現在アッカデミア美術館に所蔵されている、1496年ジェンティーレ・ベッリー二によって描かれた「サン・マルコ広場での宗教行列」の中にもこのモザイクの図柄がはっきり残っています。そして同じ段の他の三つの半円蓋には、「アレッサンドリアから運ばれる聖マルコの遺体」「聖マルコ遺体のヴェネツィア到着」「ヴェネツィア総督及び市民の聖マルコ遺体歓迎」とストーリーを成しています。この三作は17~18世紀に作り変えられたものです。

1496年のベッリー二の絵も「行列で…」の作風とは明らかに異なっており、当時どんなモザイク画だったのかは現在の絵をもとに想像で私たちが心に描くしか方法がないのですが、全ての作を通して展開される聖マルコの遺骸を迎え入れる物語と細やかなモザイクの手法を用いた絵は時代を超えて私たちを魅了します。

モザイクの技法、その細やかなしごと

サン・マルコ寺院のファサードと堂内を彩るモザイク画。そのモザイクは、ガラスの片、テッセラを使って描かれていきます。テッセラは色のついたガラスの薄い板を、2,3ミリ四方から1センチ四方以上のものまで特殊な「のみ」を使って四角に割ったものを用意し、下地になる荒い漆喰、さらにもう一層の漆喰、そして仕上げに薄くて間の細い漆喰を塗って作り上げたモザイクのための「キャンバス」が、まだ生乾きのやわらかいうちに埋め込んで描いていくのです。

様々な色のテッセラを用意する中でも金色のテッセラは、透明のガラスいたに金箔を載せ、その上に再度透明のガラスを薄くかけるという技法を使っています。モザイクの技法、テッセラの作り方に興味がある場合はサン・マルコ聖堂内のサン・マルコ博物館に詳しく展示されていて、修復工事の際に発見された11,12世紀のものとされるモザイクや、本堂の壁の一部のモザイクなどもしっかり目の前で鑑賞できるのでオススメです。

寺院?大聖堂?

サン・マルコ寺院はかつて、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあった聖使徒大聖堂を模して建造されました。1090年代に建設された聖堂は十字形平面で中央に円蓋を持つクロスドーム型のビザンティン建築だったのです。またもともとコンスタンティノポリスの競馬場にあった「4頭の馬の銅像」(現在はレプリカを置いている)が1204年第四回十字軍時に略奪されてヴェネツィアに運ばれています。

また、サン・マルコ寺院は公式にはヴェネツィア共和国時代、共和国総督の「礼拝堂」であり、カトリック教会の司教座聖堂(ドゥオーモ)とは異なったのです。それはヴェネツィア共和国がカトリック教会から政治的に独立していた所以であり象徴でもありました。1807年にナポレオンがヴェネツィアを占領し、大司教座がサン・マルコ寺院に移されて大聖堂となりましたが、それでも現在も「サン・マルコ寺院」「サン・マルコ聖堂」の呼称が一般的です。

ただ、ヴェネツィア随一の聖堂であるには違いありません。いかがでしたでしょうか。独立を果たしたヴェネツィアは、聖マルコの遺骸を、企てまでして招きいれて守護聖人としました。以前の守護聖人テオドーロはサン・マルコ広場に聖マルコ(有翼のライオン)と対を成す石柱として残されていますが、当時のこの地において、掲げる守護聖人がどれほどイエスに近い立場だったかが国の強さにも関わっていたことを感じます。

象徴として今も聖マルコを包み込み続けるサン・マルコ寺院。その壮大な建造物と、細やかなモザイク画が表す聖マルコを迎え入れたストーリーを実際に感じてみませんか。

螺旋 構造に包まれる抽象美術たち・グッゲンハイム美術館

その壮観ぶりに度肝を抜かれてしまうフランク・O・ゲーリーの代表作でもある建築物としても有名なビルバオ・グッゲンハイム美術館。現代美術ファンのみならず、建築ファンの方にも聖地と言える美術館です。そのあまりにも存在感のある建物がなぜ、ビルバオに建てられたか、また構造のことや建築家ゲーリーの素顔にも迫り、現地でより楽しめるよう私がお手伝いします。

グッゲンハイム美術館ができた経緯と展開

ソロモン・R・グッゲンハイム財団は1937年、ニューヨークにグッゲンハイム美術館を建設して以降、1980年にはヴェネツィアに「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」を、またドイツに「ドイツ・グッゲンハイム・ベルリン」を運営するようになりました。そうした世界分館構想の流れの中で、1991年にスペインのバスク州政府が財団に、ビルバオの老朽化した港湾地区にグッゲンハイム美術館を建設することを提案します。

工業都市としてスペイン屈指だったビルバオが1990年代以降に衰退してしまったため、これは政府にとって経済を再び活性化させるための一つの賭けだったと言えるでしょう。政府は建設費用、作品新規購入費用、一回ごとの展示会費用、年間予算補助など請け負うことを承諾、グッゲンハイム財団がそれに対し美術館の管理と、財団が所蔵する作品の一部を回して特別展を開催することを承諾することで、ビルバオ・グッゲンハイム美術館の構想は進展することになります。

そして財団は美術館の建築デザインに、見たこともないユニークさと、ニューヨークのグッゲンハイム美術館の吹き抜けのような印象的空間とを求めて、建築家を選出するコンペを行いました。

建築物の特徴、構造

ドイツで少人数によって行われたコンペには、スペインで人気のあった日本人建築家、磯崎新、オーストリアの設計会社ヒンメルブラウなどが参加していましたが、最終的にはアメリカ人建築家、フランク・ゲーリーの設計が選ばれました。「建築家にとってのノーベル賞」と呼ばれるプリツカー賞を数年前に受賞したばかりのフランク・ゲーリー。美術館を設計するのは初めてでしたが、財団の求めていた革新的デザインを見事に表現します。

「曲面の無規則性が光を集めるよう設計した」「どこまでグニャグニャにできるか」とゲーリー本人が述べたように輝くチタニウム、ガラス、石灰岩の、まるで生き物のような動きを感じる外壁の曲面は、意図して不規則にデザインされており、建物に隣り合うように流れるネルビオン川と彼方の山々との不思議なマッチングが壮観です。

また内部のアトリウムはゲーリー自身「The Flower」と名付けたように大きく開く花の芯部のように美術館の中心となっていて、そこからは、山々やビルバオ河口が臨めるようになっています。展示空間はニューヨークやヴェネツィアのグッゲンハイム美術館より大きく、19の展示室を有し、そのうち10室は長方形の形状ながら、石材の磨き方の違いで区別できるように、他9室は不規則な形状をしており、渦巻き状やチタニウムの板材の貼り方の違いでそれぞれの展示室の特徴を出しています。

また構造計算にハイエンド3次元CADシステムを用い最先端の技術を駆使して有機的曲線、無規則性を可能にしたことも特筆すべきでしょう。

建築物への称賛と批判

革新的建築物であったことで注目を集め、また「脱構築主義建築」に位置付けられた上で、20世紀の傑作として称賛の声が次々と上がりました。中でも「ザ・ニューヨーカー」において評論家のカルヴァン・トムキンスは「チタニウムの外套をまとい、うねるような形状の、幻想的な夢の船」と、外壁の有機的な存在感を表現し、賛辞を寄せました。

その他にも「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」「インディペンデント」などがゲーリーの才気を称え、偉業と評しました。また「我々の時代で最高の建築物」との言葉を寄せたのが建築家(フィリップ・ジョンソン)だったことも、ゲーリーの設計したこの建築物がいかに影響力があったか想像させます。その反面、現地のバスク人芸術家たちはこの建築物が「バスク芸術の伝統を侮辱するもの」として抵抗をあらわにしました。

バスク人彫刻家、ホルヘ・オテイサは建設前から反対を表明、自身の作品を美術館に展示することを拒否し、全作品群をナバーラ州政府に寄贈するという激しい抵抗を表しました。また、バスク州議会与党(バスク民族主義党)党首がグッゲンハイム財団と契約を結んだこと自体にも抗議、告訴状を作成します。

さらにバスク人現代美術家のアグスティン・イバロラは「事前に地元の芸術家たちに相談がなされなかった」ことを批判しました。党側に親しい芸術家はこの美術館がバスク文化界に好影響をもたらすであろうことを主張もしましたが、オテイサに同調するバスク人芸術家は多かったのでした。それだけの衝撃と革新をこの建築物がこの地に与えたこともまた真実でしょう。

そして彼らの抵抗とは裏腹に、州政府の経済的な立て直しはこの美術館によって功を奏します。奇抜な建築物の誕生と最新の現代美術が、一度は衰退した工業地帯から、観光地としての経済発展へ導いたのです。

建築家フランク・ゲーリー

フランク・ゲーリーはアメリカ、ロサンゼルスを拠点としたカナダ出身の建築家です。そのゲーリー、「天才か奇人か」と言われるほどの感性と、一歩先を行く建築作品とが、同業者や建築マニア、さらに各界の著名人をも惹きつけてやみません。また惹きつける分「目立ちたいだけの建築」など酷評も生むのですが、ゲーリー本人はそれに対し記者会見の席上で中指を立てて「今の建築の98%は糞だ」と答えてしまうというやんちゃぶり。

会場はシーンと静まり、関係者は冷や汗ものだったでしょうけれど、エピソードとしては彼の人気に火をつける一件。いや、建築家として本気だからこそのエピソードです。

彼の代表作は「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」の他にもプラハのヴルタヴァ川のほとりにある、まるで男女が抱き合って踊っているかのように見える「ダンシング・ハウス」スペインのぶどう畑にワイナリーホテルとして建てられた、ピンク、金、銀のカラーのチタンプレートの屋根が波打つような「マルケス・デ・リスカル」など、自然の中に突如現れた人工生物、宇宙基地的な存在感で、地から天からの視点を生み、建築の定義をくつがえしてくれる作品たちが揃っています。

展示されている現代美術

そうそうたる現代美術作家の作品が展示されていて、ファンにはたまらない、またそうでなくとも不思議な楽しさに包まれる内容です。今やビルバオの象徴ともなり、愛称パピーと呼ばれている巨大テリエ犬(ジェフ・クーンズ)や、蜘蛛シリーズ「ママン」(ルイーズ・ブルジョア)、その他リチャード・セラ、マーク・ロスコ、イブ・クライン、そしてグッゲンハイムの一部としてダニエル・ビュランの構造物など、現代アートに浸れます。

いかがでしょうか。建築物、アート共に楽しめるビルバオ・グッゲンハイム美術館。むしろ、フランク・ゲーリーの建物は彫刻作品のようだとの声もあるほどです。どこをどう切り取って撮影しても風景と、空と響き合う完璧な有機的構造に、ぜひ酔いしれてみてください。

異教のミクスチャー芸術としての建築・アヤソフィア博物館

アヤソフィア博物館は、現在はトルコのイスタンブールの人気の観光スポットですが、様々な試練をくぐり抜けて現在もその迫力の姿を見せてくれている歴史的建造物です。私が大好きなこのイスタンブールという街、、安泰になるまで過酷な歴史をくぐり抜けてきました。紀元前300年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世による支配下コンスタンティノープルと呼ばれる東ローマ帝国の首都でしたが、ラテン帝国による征服、再び東ローマ帝国による支配を越え、15世紀半ばにはオスマントルコの侵攻により陥落。ここでイスタンブールと改称されます。

ようやく現在の「トルコ共和国のイスタンブール」となったのは20世紀前半でした。その歴史と宗教の変遷を乗り越えて、見事なまでにすべてを芸術として内包した建築物が、現在のアヤソフィア博物館なのです。聖なる叡智(ハギア・ソフィア)と呼ばれ、イスタンブールの歴史地区の一部として世界遺産にも登録されたその雄大な建造物と微細な象嵌細工、そしてモザイク画。鑑賞するだけでも十分魅力の宝庫と言えますが、より深く味わうために、この建物が越えてきた歴史を探ってみましょう。

アヤソフィアの起源と二度の焼失

今から1700年近く前という途方も無い時を超えると起源にたどり着きます。350年ごろ東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルで、皇帝コンスタンティヌス2世の命で建設に着手し、10年の歳月を経て完成したのです。360年に古代キリスト教(アリウス派)により献堂されたのがそもそもの始まりでした。しかしその後、404年にまず宗教上の争乱が起こり焼失してしまいます。初代アヤソフィアは現在では位置が確認されているだけなのです。

すぐに二代目のアヤソフィアがテオドシウス2世によって再建され415年には新教会が献堂されるも、こちらも532年には市民の反乱(ニカの乱)の放火で焼失してしまうのです。二代目アヤソフィアは柱や梁などの遺構がわずかに残っているそうです。この失われた教会はメガリ・エクリシア(大教会)と呼ばれた非常に大きな建造物だったそうで、その後に再建する時もその威光を受け継いだ大聖堂建築となったのでしょう。

大聖堂が何度もくぐり抜けた試練

再建を指示したのは絶対的な権力を手中にしていたユスティニアヌス帝でした。莫大な費用をかけ、また世界中から技術者や作業員を集めて6年弱という期間で完成させ、献堂式を迎えました。新たな設計の大聖堂は、大型の石材製の柱で支えられた巨大なドームを有していました。長期的な安全性を考慮しての設計ではあったのですが、建築中に支柱が傾斜してきたり壁に亀裂が走ったりしたため、急遽ドームの重さに耐えうる補強壁を足すという苦肉の策が打たれたようです。

しかし完成後にドームの形が楕円形になっている不完全さに気づいた上に、地震によって多くの部分が崩れてしまいます。そのためドームを取り除いて内壁を補強し軽量の建築材を使って修復がなされました。その努力さえ1000年という時の流れには無力で、大きな崩落を何度となく繰り返したのでした。そのたびに修復を繰り返し、補強のための増改築をしてきた中でアヤソフィアは姿を変え、巨大になっていきます。そう、こうして大聖堂は1000年以上の時を超えたのです。

イスラムモスクへ、そして博物館へ

一時、13世紀にラテン帝国の支配下となってカトリックに変わり、大聖堂が放置された経緯はあったものの、再び東ローマ帝国の支配下になるとキリスト教会として礼拝され、長きに渡りキリスト教の教会としての役割を果たしてきたアヤソフィアでしたが、15世紀半ばに転機を迎えることになります。オスマントルコの侵攻です。

この際コンスタンティノープルは陥落し、イスタンブールという名へ。その時からイスラム教へ変わりました。陥落の後三日間コンスタンティノープルの街では略奪が許可され繰り広げられます。アヤソフィアも荒らされたのですが、スルタン・メフメット2世が略奪後の街に入った折にアヤソフィアを見て、その建築技術と芸術性に感銘し、聖堂からモスクへ改修する措置を取ったのです。その際、従来の文化にも理解を示したメフメット2世はキリスト教徒の自由を保証しました。

モスクに改修する際も十字架の撤去はあったものの、限られた改修だったのです。またキリスト教の宗教画、ビザンチン時代のモザイク画を漆喰で塗り隠したことは、結果的には保存に適した形になったのでした。その後も長い時の中で征服者たちの争いや自然による崩壊を経験しつつ、アヤソフィアは修復されながら生き延びます。

そしてついにトルコ共和国の時代になって博物館という新しい役割を得るのです。こうして宗教上の建物の役割を終え、イスラム教のカーペットや壁の漆喰が外され、芸術としての保護、修復がなされるようになりました。また建築の構造上の見直しと工事も、未来に残すために行われるようになったのです。

アヤソフィアの見どころ

第一の見どころは何と言っても大迫力のドームでしょう。そして悠久の時を越えた建築の美を肌で感じられることです。また漆喰を外されたビザンチン時代の黄金に輝く美しいモザイク画や、聖像破壊運動で顔の隠されたフレスコ画が、修復されて美しく現れた様子を見られることも魅力です。そして象嵌細工の細やかさを味わえるのは現地に行ってこそなのです。これらの芸術を鑑賞するにあたり、やはり歴史を知っておくとさらに感動が深まる、ということはもうおわかりでしょう。また、チャーミングな見どころとしては、看板娘ならぬ、看板猫さんがいること。オバマ大統領もこの猫さんに出迎えてもらったことで広く知られるようになりました。猫好きにはたまらない歓迎ですね。

観光のポイント

まず服装はやはりそれなりに肌を露わにしない服装で、ストールなどを持参する気遣いができると良いです。博物館ではありますがその国の文化に対する礼儀として心がけましょう。とても人気のある観光スポットなので訪れるのは朝がオススメ。見どころは探せば探すだけ現れるのでたっぷり時間をとって訪れたいものです。写真撮影も可なので、自分だけのアヤソフィアを写してみましょう。さあ、宗教も文化も時も超えて輝くアヤソフィアに会いに行きませんか。ぜひ歴史を肌で感じつつ壮大なドラマを内包した芸術的建築を堪能してください。